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ビル・ミラー (プロレスラー) : ミニ英和和英辞書
ビル・ミラー (プロレスラー)[びる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ビル : [びる]
 【名詞】 1. (abbr) building 2. bill 3. (P), (n) (abbr) building/bill
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ビル・ミラー (プロレスラー) : ウィキペディア日本語版
ビル・ミラー (プロレスラー)[びる]

ビル・ミラーDr. Bill Miller、本名:William M. Miller1927年6月5日 - 1997年3月24日)は、アメリカ合衆国プロレスラーオハイオ州フレモント出身のドイツ系アメリカ人
獣医師の免許を有していたことから「ドクター」の異名を持ち、覆面レスラードクターXミスターXミスターMに変身しての活動でも知られる。第5代AWA世界ヘビー級王者(ミスターMとして戴冠)。実弟のエド・ミラーとダン・ミラーも元プロレスラーである。
== 来歴 ==
オハイオ州立大学時代はスポーツ万能ぶりを発揮し、カレッジフットボールではローズボウルで活躍。レスリングではビッグ・テン・カンファレンス1950年1951年の2度に渡ってヘビー級チャンピオンとなり、1951年にはNCAAのオールアメリカンに選出された。学業においては獣医学を学び〔〔『THE WRESTLER BEST 1000』P284(1996年、日本スポーツ出版社)〕、獣医師の資格を取得したが〔、プロモーターのアル・ハフトにスカウトされ〔、大学卒業後の1951年にプロレスラーとしてデビュー〔〔。
地元オハイオにてハフトが主宰していたMWA(ミッドウエスト・レスリング・アソシエーション)を主戦場に、1953年から1955年にかけて、ミッドウエスト・ヘビー級王座および改称版のイースタン・ステーツ・ヘビー級王座をバディ・ロジャースと争う。1956年2月にはディック・ハットンを破り、オハイオ・ヘビー級王座にも戴冠した。
1956年下期からは弟のエド・ミラーとタッグチームを結成し、アメリカ西海岸からカナダトロントまで、NWAの各テリトリーを転戦。同年8月にはサンフランシスコにてボボ・ブラジル&エンリケ・トーレスから同地区認定のNWA世界タッグ王座を奪取している。
エドとのタッグ解消後は覆面レスラードクターX(''Dr. X'')に変身し、ネブラスカ州オマハにて1959年10月3日にウイルバー・スナイダー1961年2月4日にドン・レオ・ジョナサンを破り、俗に「オマハ版」といわれるAWA世界ヘビー級王座を獲得。その後、ミネソタAWAミスターM(''Mr. M'')に再変身し、1961年10月17日にハードボイルド・ハガティからUSヘビー級王座を奪取。1962年1月9日にはバーン・ガニアを下してミネアポリス版のAWA世界ヘビー級王座にも戴冠している(両AWA世界王座は1963年にガニアが統一)。
この間の1961年5月、ミスターX(''Mr. X'')のリングネーム日本プロレスに初来日。『第3回ワールド大リーグ戦』に出場し、力道山と決勝を争った〔。継続参戦した選抜シリーズにおいては、7月21日に田園コロシアムにて力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦している。同リーグ戦にはカール・ゴッチもカール・クラウザー名義で参戦していたが、ミラーとゴッチは1962年9月、オハイオ州コロンバスの会場控室においてバディ・ロジャースとトラブルを起こしたことがある〔〔フレッド・ブラッシー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『フレッド・ブラッシー自伝』P187(2003年、エンターブレイン、ISBN 4757716923)〕。
1965年からは素顔のドクター・ビル・ミラー(''Dr. Bill Miller'')としてニューヨークWWWFに登場。7月12日・8月2日・8月23日のマディソン・スクエア・ガーデン定期戦において、ブルーノ・サンマルチノWWWF世界ヘビー級王座に3カ月連続で挑戦している。WWWFでは弟のダン・ミラーとのタッグでも活動し、1965年8月5日にはゴリラ・モンスーン&カウボーイ・ビル・ワットからUSタッグ王座を奪取、翌1966年2月21日にジョニー・バレンタイン&アントニオ・プリエーゼに敗れるまで保持した。
1968年1月、ミスターXの覆面を着けながらもビル・ミラー名義で日本プロレスの『新春チャンピオン・シリーズ』に再来日。1月8日の広島大会ではクラッシャー・リソワスキーと組んでBI砲ジャイアント馬場&アントニオ猪木)のインターナショナル・タッグ王座に挑戦する予定だったが、猪木が雪害のため広島入りできず欠場、タイトルは空位となり、馬場&吉村道明と王座争奪戦を行うも引き分ける〔『1945-1985 激動のスポーツ40年史(6)プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P154(1986年、ベースボール・マガジン社)〕。2月3日に東京大田区体育館にて改めてBI砲との争奪戦に臨むが敗退した。
1968年はオーストラリアジム・バーネット主宰のワールド・チャンピオンシップ・レスリング)にも遠征し、6月にキラー・コワルスキーとのコンビでIWA世界タッグ王座を奪取している。1970年6月26日にはインディアナポリスWWAにて、ディック・ザ・ブルーザーと組んでWWA世界タッグ王座も獲得した。同年11月20日、ザ・クリムゾン・ナイト(''The Crimson Knight'')なるマスクマンとして、ミズーリ州セントルイスにてドリー・ファンク・ジュニアNWA世界ヘビー級王座に挑戦するも敗退、覆面を剥がされている〔。
1971年2月、素顔のビッグ・ビル・ミラー(''Big Bill Miller'')として国際プロレスの『AWAビッグ・ファイト・シリーズ』に来日。3月4日の北九州小倉大会でサンダー杉山からIWA世界ヘビー級王座を奪取し、ベルトを海外に流出させるも、3カ月後の6月19日、ミネソタ州ダルースにてストロング小林王座を明け渡した(当日、両者はミネアポリスにて、ミラーはニック・ボックウィンクル、小林はビル・ロビンソンと対戦しており、ダルースにおける小林とミラーの試合は記録に残されておらず、この王座交代劇は架空のものともされる〔『日本プロレス事件史 vol.1 "黄金時代"の光と影』P69(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583621817)〕)。国際プロレスには1972年6月開幕の『ビッグ・サマー・シリーズ』にも再来日し、7月19日に東京の板橋区体育館にて新王者の小林に挑戦したが、タイトル奪還は果たせなかった。同シリーズではバロン・シクルナをパートナーに、空位となっていたIWA世界タッグ王座を小林&グレート草津と争っている。
1973年6月末にはキラー・カール・コックスブル・ラモスらと共に全日本プロレスの『サマー・アクション・シリーズ』に参戦、これが最後の来日となった。1976年の現役引退後は地元のオハイオにて食肉検査官の職に就き〔『THE WRESTLER BEST 100』P96-97(1981年、日本スポーツ出版社)〕、後に獣医を開業した〔〔。
1997年3月24日、ジムでのトレーニングを終えた後、心臓発作を起こして死去〔。。同年、オハイオ州立大学では生前の彼の功績を称え、アスレチックの殿堂に迎えている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ビル・ミラー (プロレスラー)」の詳細全文を読む




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